池田SGI会長の資料

自衛隊派遣についての見解(1991年・第16回「SGIの日」記念提言より引用)

行き詰まる一国平和主義―日本の新しい国際貢献策を

 日本の安保理の常任理事国に、との声は、とくに国内に多いようです。
たしかに、経済を中心とした総合的な国力、国連への分担金拠出額(アメリカに次いで第二位)の大きさなどから、国連の中枢である安保理へのそうした要求が起こるのも一理あります。しかし、やはり、私は無理があると思います。
  安保理を支えている思想の基軸は、いうまでもなく「集団安全保障」ですが、日本国憲法は、その「集団的自衛権」を禁じ、自衛隊の海外派兵を「違憲」としているからです。
 国連が武力制裁に踏み切ろうとする時―今回の湾岸戦争のように、「多国籍軍」という形であれー常任理事国でありながら参加しないということでは、論理的に無理があり、通用しないと思われます。
  しかし、日本の国力がこれほど拡大し、国際的な交互依存が進行している現在、いわゆる一国平和主義の「虫のよさ」が、受け入れられない段階に来ている事実も否定できません。そうしたジレンマの中から「世界に貢献するための『憲法改正』論議なども一部で浮上していますが、私は賛成できない。平和志向の国家としての国是にかかわるからです。やはり、何人かの識者が提案しているように、自衛隊とは別個に、国連の平和維持活動(PKO)に参加するための組織を作るというのが正しい道であろうとおもいます。
  日本は、むしろ軍事的安全保障とは別の面で思い切った国際貢献を考えてはどうか。その一つのアイデアとしては、地球環境の保全への貢献があいます。
 国連の改革、強化に即していえば、安保理事会を第一(平和担当)、第二(環境担当)に二分し、安全保障そのものの発想を大転換する必要があります。
  私がこの着想を得たのは、昨年来日したスベレ・ドガルド氏(オスロ国際平和研究所所長)との会談を通してであります。安全保障の考え方は軍事的側面からだけでは不十分であり「環境安全保障」という発想が必要だ、というのが氏の主張であります。
 確かに今日、人類の生存を脅かしているのは軍事的脅威だけでなく、地球環境の破壊であります。
従って、国際政治の最優先課題の一つとしてこれにと取り組む必要があり、私は軍事的次元の安全保障とは別に、環境レベルからの安全保障を考えるべきだ、との発想は、極めて今日的なものといえましょう。
  私は、かねてから全地球的な環境問題の重要性を考え「環境国連」の設立構想を提示してまいりました。その「環境国連」へ進む重要なステップとして、私は環境問題を担当する第二安全保障理事会の新設を提案するものであります。明年はブラジルで国連環境開発会議の開催が決まっており、環境問題の取り組みは、いよいよ正念場に差し掛かっております。
 地球環境を守るためであれば、経済大国にふさわしい思い切った貢献策が可能なはずです。
その意味で、日本は、「環境安全保障理事会」の誕生に、積極的なリーダーシップを発揮し「エコノミック・アニマル」の悪評を一新させるような、大胆かつ勇気ある一歩を踏み出すよう切望してやみません。


公明党と憲法9条についての見解(毎日新聞2001年09月25日のインタビューより引用)

公明党は宗教政党らしい純潔性とか寛容さが感じられなくなっている

岩見 公明党は最近、宗教政党らしい純潔性とか寛容さが感じられなくなって、自民党や民主党と同じ普通の政党という印象ですね。惜しいなあと感じているんですが。
池田氏 全く同感です。私もそう思っています。そうなると何の魅力もなくなる。
岩見 最近は衆院の選挙制度自体を変えたらどうだと公明党も提唱しているようです。
池田氏 中選挙区制が日本に一番当てはまるんじゃないか。公明党に有利とか不利とかいう問題じゃなくて、多様化した日本社会にあって、その方が幅広く皆が選択できると思うからです。
岩見 今、自民党と連立を組んでいますが、自民党は相当くたびれてきたなあと私は思っていますけれども、どうですか。
池田氏 いつかはもう一度、本格的な政界再編の時が来るのではないでしょうか。
岩見 そういう意味でも公明党が日本の政界に刺激を与える役割はあるんじゃないかと。
池田氏 そうでなければ公明党の存在価値がなくなります。自民党の補完勢力みたいになってしまうから。
岩見 今の自民党だと、そう展望はありません。
池田氏 再編があっても長続きするかどうか……。だけど自民党単独内閣は、当分できそうもありませんね。連立は時代の流れと思います。
北村 創価学会は今後、政治とのかかわりをさらに深めるのでしょうか。
池田氏 宗教は人々の幸せと世の中の平和と繁栄を願うものです。政治が腐敗、堕落し、危機的状況にある限り、異議申し立てをするのは、宗教者として当然の責務です。政治への監視を庶民の目線で行うことは、非常に大切なことと思います。

憲法9条変えてはいけない

岩見 首相公選制について、名誉会長はいいんじゃないかというお考えとうかがっていますけど。
池田氏 否定はしません。新しい日本の何かを生み出してもらいたいという意味で。何だか全然、政治が面白くないから。
岩見 仮に首相公選制を導入するとなると、憲法改正を必要としますね。
池田氏 そうなんです。私は絶対に第9条(戦争放棄)だけは変えてはいけないと思います。その他は、やむを得ない場合があるかもしれないが。
岩見 憲法を見直すこと自体はいいと。
池田氏 その通りです。論議は結構だ。9条は変えてはいけない。

もはや党派性の時代ではない それでは必ず行き詰まる

北村
 名誉会長、最近までずっとマスコミに登場しなかったのですが、最近、朝日新聞への寄稿から始まり、登場が続いています。何か思うところがあってですか。
池田氏 創価学会というと、すぐに公明党と見られがちです。その公明は、自民と一緒になってます。一般の方々は学会も同じように、つながってしまっていると思われかねません。そのように思われることは、学会にとっては非常に迷惑なことです。心ある会員にしかられます。また離れていきます。そこで、創価学会の主体性を明確にしておかないと、内部的にも納得を得られないと思って発言を多くするようにしました。私たちは、公明党を支援するために信仰しているのではない。宗教は人間対人間の心の連帯です。もはや党派性の時代ではない。それでは必ず行き詰まる。あくまでも人間です。人間のための、人間による宗教活動を、私たちは進めていきます。

 教育基本法についての見解

◆教育基本法 見直すより大いに活かせ(朝日新聞2001年5月23日から引用)

 昨今、教育改革が政治日程に上るなか、小泉政権の下でも「教育基本法」の見直し論議されている。
 私自身は、拙速は慎むべきであると考える。基本法の眼目である「人格の完成」など、そこに掲げられた普遍的は理念は、教育の本義にのっとったものであり、新しい世紀にも、十分、通用するからだ。
 たしかに、基本法がうたう「人格」や「個性」は抽象的だという指摘もある。しかし、憲法に準ずる基本法の性格を考えれば、抽象性ゆえの普遍性は、むしろメリットとして、大いに生かせるのではなかろうか。
 第一に「グローバリゼーション(地球一体化)」は、とどめようのない時流である。そこでは、国益と同時に人類益への目配りが欠かせない。普遍的かつ世界市民的な視野を養うことが、ますます重要になる。
 第二に、「教育勅語」に盛られたような具体的な徳目は、基本法の性格になじまないと思う。法文化されれば、必然的に権威主義的な色彩を帯びてしまうからだ。
   現代は、あらゆる既成の権威が色あせ、家族という人類最古の共同体までも“ゆらぎ”に直面している。その底流を直視せずに、教訓的な徳目を並べても、復古調の押し付けとして反発されるだけだ。
 もとより私は、日本の歴史や伝統文化を軽んずるのではない。逆である。
 軍部権力と対決して獄死した、ある卓越した教育者は「慈愛、好意、友誼(ゆうぎ)、親切、真摯(しんし)、質朴等の高尚なる心情の涵養(かんよう)は、郷里を外にして容易に得ることはできない」と述べた。地域や郷土に根ざした固有の文化や伝統を尊重してこそ、豊かな人格の土台も築かれる。
   ただ、そうした心情の涵養、人格の形成は、外からの「押し付け」ではなく、徹して「内発的」に成されるべきである。
 周知のように、基本法は、アメリカのデューイの教育哲学と親近している。デューイも内発的な精神性を重視し、それを引き出すものこそ教育であり、「人間は、教育によって人間となる」と断じた。「内発」こそ、教育改革のキーワードではなければなるまい。
 私自身、教育を生涯の事業として取り組んできた。すべての子どもの生命にある「伸びゆく力」と「創造力」を開花させるのは、やはり教育の現場、また家庭や地域における、人格と人格の触発以外にない。
 目指すべきは「教育のための社会」である。社会のために教育があるのではない。教育のために社会があり、国家がある。発想を転換して、21世紀こそ、子どもたちが「生きる歓(よろこ)び」に輝く世紀としていきたい。


◆「論 対談2001」(西日本新聞2001年12月4日から引用)

玉川(西日本新聞編集局長):憲法論議のほかに教育基本法改正が諮問された。「拙速を慎むべき」と発言されているが。
池田: 私が心配するのは、これを突破口にして憲法改正に入ろうという考えがみえることだ。基本法の見直しを改憲につなげようという政治的思惑には絶対反対する。教育を国家主義的な方向へと逆行させることはあってはならない。
 教育のあり方を、国家が規定していこうと言う発想そのものが間違いだ。政治主導や官僚主導の形で、子どもたちを何か鋳型に押し込むようなやり方には限界がきており、早急に改める必要がある。教育の問題は、単に基本法の文言を変えるといったような”上からの改革”で解決できるものでは決してない。
 当然、日本の伝統的な文化や価値を伝えることは、大変に重要だと思う。しかし、社会全体の教育の力が発揮されてこそ、初めてその効果を生むことができると考える。「社会のための教育」ではなく、「教育のための社会」という抜本的な発想の転換が、何よりも先決問題であると、私は思っている。

人権・人道についての見解

平和と人間のための安全保障」―国家主権から人間主権へ
(ハワイ「東西センター」での記念講演1995年1月27日から引用)

■近代戦争は国権の発動

 第三に、「国家主権から人間主権へ」の発想の転換であります。
  21世紀の相次ぐ争乱の主役を演じてきたのは、何といっても主権国家であります。国権の発動としての近代戦争は、ほとんど有無をいわせず、すべての国民を大いなる悲劇へと巻き込んでまいりました。
  両大戦ののち、苦渋の経験を踏まえて、国際連盟や国連連合が結成されたのも、一面から言えば、何らかの形で、国家主権を制限し、相対化しうる上位のシステムを作り出そうとの試みであったと思うのであります。
  しかし、その意欲的な試みも、今なお「日暮れて道遠し」の感はいなめません。

■「人類益」「世界市民」の時代をー国連はソフト・パワーを基軸に 

 幾多の難題を抱えながら、本年、国際連合は、満50歳を迎えようとしております。私は、「人類の議会」たるべき国連は、あくまで対話による「合意」「納得」を基調としたソフト・パワーを軸にして、従来の軍事中心の「安全保障」の考え方から脱却しつつ、機能の強化を図っていくべきであると信じる一人であります。
  例えば、「環境・開発安全保障理事会」の新設など、新たな活力をもって、「人間のための安全保障」に取り組んでいくことが望まれます。その際、何といっても、すべてのベースになるのは、国連憲章が「我ら人民は」と謳い上げているように、「国家主権から人間主権へ」の座標軸の変換であります。
  そのためにも大切なのは、「人類益」(人類全体の利益)という幅広い視野をもった世界市民を育成し、その連帯を広げゆく草の根の教育運動ではないでしょうか。
  意義深き国連創設50周年の節にあたり、私どもも、NGOとして、青年を中心にさらに力強く、グローバルな意識啓発を推進しゆく所存であります。

■世俗の権力を超える「真理の王」の魂ーナショナリズムは集団力の崇拝

 この「国家から人間へ」という転換を、仏法者の立場からいえば、「一個の人間として、巨大な権力にも毅然と対峙し、権力を賢明に相対化していける人格を、どう形成すべきか?」という主題であります。
  20数年前、イギリスの歴史学者トインビー博士は、私との対談の中で、「ナショナリズム(民族主義)は、人間の集団の力を信仰の対象とする宗教である」と位置づけておりました。これは、国家のみならず、今日、世界各地で地域紛争を激化させている「自民族中心主義」にも当てはまるでありましょう。
  こうした人類の生存を脅かす狂信的ナショナリズムなどの諸悪と対決し、克服しゆく力を、トインビー博士は、未来の世界宗教に要望されたのであります。なかんずく、博士が、「普遍的な生命の法体系」を説いた仏法に深い期待を寄せられていたことを、私は忘れることができません。
  たしかに、仏法の伝統は、人間の内なる「真理の法」に立脚して、権力というものを超え、それを相対化しゆく、実に豊かな水脈を有しております。
  例えば、釈尊は、セーラーというバラモンから「王の中の王として、人類の帝王として、統治をなさってください」と懇願された時、「セーラーよ、私は王ではありますが、無上の真理の王です」と応じているのであります。

 

「第三の千年」へ 世界市民の挑戦(1996年第21回「SGIの日」 記念提言から引用)

■「平和の内実」は人権の尊重にー真に人間らしく生きる権利

 さて、私は民族問題について前述した際に、政治的主張によってもたらされる結果が、本当に「人間の利益」につながるか否かを、まず第一の判断基準とすべきと強調しましたが、具体的な判断をするうえでの尺度となるのはやはり、「個人の尊厳」と「人権」の確保でありましょう。
  1993年に行われた世界人権会議において採択された「ウィーン宣言」でみられるように、いまや「人権の普遍性」は国際社会における共通の関心事項となりつつあります。
  その先駆者として「世界人権宣言」の起草準備にも携わった故アタイデ氏(前ブラジル文学アカデミー総裁)は、私と編んだ対談集「21世紀の人権を語る」の中で、人権とは「人間から生じるもっとも崇高な、決して譲渡することができない価値」であるからこそ、「国や時代に制約されることなく、永遠普遍性にもとづいて、定義することが必要」と訴えておられました。今、国際社会は、この「人権の普遍性」確立へ向けて、ようやく本腰を入れ始めたといえましょう。 [略]
  軍国主義がもたらす絶え間ない狂気と悲劇を見つめ続けた作家のSツヴァイクは、1941年に、「我々は国家に順番をつける場合に、産業、経済、軍事的価値ではなく、平和的精神と人間性に対する姿勢を判定の尺度としたい」と述べたことがありました。国連が試みるこの「人間開発指数」は、ある意味で彼の発想に通じたものといえましょう。
  私は、広義の「人権」、いうなれば人間が「真に人間らしく生きる権利」の確保こそ、「人間のための安全保障」の核心をなすものであらねばならないと考えます。人権は、すべてに優先する根本的な課題であり、人権なくして「平和」も「幸福」もない。
  そして、この人権は「人権から生じる最も崇高な決して譲渡することができない価値であり、人間に人間としての特性を与え、精神的な価値をもたらすもの」である。だからこそ私は、国家といえどもこれを侵すことは断じて許されないと強調しておきたいのです。

■「人道的競争」の時代 予見した牧口初代会長

 創価学会初代会長の牧口常三郎先生は、今から百年近くも前にその著「人生地理学」の中で、こうした時代の方向性をすでに明確に打ち出していたのでありました。当時(1930年)は、帝国主義が世界的に広がりを見せていた時代、日本においても日清戦争から日露戦争へと向かってナショナリズムが高まっていた時期にあたります。
  国家が、外にあっては他国の侵略へと突き進み、内にあっては国民に対する統制を強めていった時勢の中で、牧口先生は、「地球」「人類」という次元から「国家」を見下ろしつつ、やがてくる新時代に向けてのビジョンを「人生地理学」で描き出したのでありました。
  そしてその中で、「国家」の果たすべき根幹の使命は「国民個人の自由を確保すること」「個人の権利を保護すること」、また「国民の生活に対してその幸福の増進を図る事」にあると強調したのです。
  牧口先生は、まさに国家の最終目的は「支配」にではなく「人道の完成」にある、と喝破されたのでありました。その上で、人類は、もはや「軍事的競争」でも「政治的競争」「経済的競争」でもなく、「人道的競争」の時代を志向するべきであると提唱されたのであります。いまや、その卓越した先見性は時代の証明するところとなってきている、といえましょう。



 
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